第五章 ぼたん山京丸の里の事

光明山より下り五十丁、是瞼岨大難所也。和田の谷宿(やしゅく)も亦五十丁過て犬居村あり。 
 
 是は秋葉のふもと也。家かず三十軒ほどあり。此所に一の鳥居あり。のぼり五十丁、からかねしんちうなどの
燈籠かずかず立ならぶ。


 こゝに宮川といふ船わたしあり。犬居川ともいふ。

此水上は遙に深き山奥にて京丸の里(6)といふ。

それに牡丹山といふ大山ありてそれより流る也。

これによつて此宮川の
川ばたをつたひ行けるほどに京丸の里につきぬ。

此里人のいふには、此さとは
昔より知るひとなかりしが、享保のころ洪水(おほみず)ありし

時此宮川へ調度など流れくるをあやしみ、此奥に人家
(ひとざと)あることをさとしおほやけ

につぐるに、其あたりの武官に課
(おゝ)せてこれをただしぬとなり。

 其時河すぢをつたひ尋られしに家居五六軒あり、男女五十餘住めり。

武官出合給ふに物いひもつねにして、文字もあり、男は惣髪にてひげなといづれも長し。

女は鐡漿
(かね)もつけず、衣装は手織のものとみえてよに目なれぬもの共也。

されども住居は調度にいたる迄自由に買もとむるさまなるゆへ、人の通路ありやなしやと

とひ給ふとき、此里へくる人なし。

こなたより深山を
つたひ出て岩茸椎茸くしがき栗などを携へ行て、我望ものを約束してこ

と換るなり。

 されと所をいはねばいづくのものとも更にしらす、よつ
て里へくる人はなし。

此里の由来をとはれしゆへこたへていふに、此
所をばむかしより京丸の里といひならはせし

也。先租と申は大宮人とや
ら申て、此山奥へ身をかくし風早何某とやらん也。

 今われにいたり十六
代なり、此里の長をば今に風早佐右衛門の佐と申也といふ。

武官聞し召、
それならば定めて持傅へしものあらんととひ給へば、いかにも持傅へしものあ

り、太刀一腰、長刀一振、丸鏡一面、親鸞聖人の御筆物二ふく、
家集詠草(いゑのしう)と外

題したる哥書十冊斗なり。

しかしながら太刀、長刀、家集詠艸
(いえのしうかしょ)、此三品は此たびの山ぬけにうせたり。

今は鏡と聖人の御筆物斗なりといふ。

 氏神あるひは神事のことをとひ給ひしこたへに、別に氏神とてはなし、此ゆへに定れる神事

もなし、先祖を祭るには聖人の御筆物を敬ひ尊む斗也。

此里人身まかりたる時も是にむかひ念佛して葬ると也とこたへたり。

此時より搗栗貳升の貢を奉ること定まりて通路の道を開れしと也と、今の風早佐右衛門の佐

に此物がたりを聞侍る。


 年久しく持傅えし祖師聖人の御筆の物といふは、一軸は六字御名號、今一軸は三方正面の彌陀如来尊像とじて畫像なり。
筋違て拝するにもいかさま正面のごとくに拝る也。同行みなみな此畫像を拝して感ぜぬはなかりき。

 此里の牡丹山といふは、ぼたんの大木多くあり。

其中にも大なるは二丈まはり高さ貳十間ほどをかしらとする。

花の大さとほく見やりて菅笠ほどに見ゆ
る。但し白にて赤はなし。

しかし巌峻岨にして手にとることあたはず、さかりの比尤よしといふ。

 同行此ぼたん山を観じて戯にいふやうは、いかさま獅子に牡丹といふことありしが、市町村里の花壇に
咲ぼたんはいとしほらしくて草花に類するやうに思はる。
 獅子はいきほひのつよきもの、ぼたんにたはむるといふともふみちらしそふな物とかねてふしんにあり
しが、此峻岨の岩間に牡丹の大木をはじめて見るにつけ、獅子のいづるはこゝらのことならん。
 よにいふ石橋のことも此やうなるところなるべしといふて。皆々わらひをふくみて興じき。


 今は猶自由にて犬居村などへゆきゝのたよりあることゝなりぬ。

御名號
の寶物あるゆへにや念佛を尊むさまなり。

しかはあれどいかなることにや宗旨は禅宗なるよしをかたりぬ。

 これらの畸事を見るも、全く御材木に心をゆだぬることなくばしらぬ物をと思へば、

いよいよくめづらしくぞ覚ゆ。

さて犬居村より五十丁のぼりて秋葉の門前文蔵
(もんぜんぶんぞう)にとまりて夜をあかしぬ、

                                                    遠山奇談巻之一 終
                                   

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