遠山奇談 巻之二

 第六章 秋葉山奥の院蛭虻の事 に一盃水 山住明神 みさくぼ川かけはしの事

 
 明れば秋葉山奥院の間、首五十町を行。


ゆきゝ稀にて、たゞ峯をつたひ行に木々茂りあひて日かげ更にもれず、夏の暑ころなれど、

いや寒く三月より十月迄は蛭多して茂れる木々を覆ひ、
人音きひて皆頭をふりたて、人にと

び付衣類をくゞり蛭のために血しほとなる。
又五月比より七月比迄は虻多し。

三四間むかふは群る虻に道を隔られてわかちがたしとなん。

此時節には蛭虻打まじへてたえかねたる所也。

 かねて木の枝を用意し携へ行、拂わけ行ほどに、さりとは蛭虻のために身を苦しみゆくこ

と、こはなさけなくかゝる苦しきことといとひしかども、今度のねがひせつなるに力を得忍

びこらへてぞゆきける。百丁過て大きなる
巌あり、かたはらに七尺四方の人やどりあり。

此難所をたまたまゆきゝする人、厳冬雪風あるひは蛭虻のためにつかれたるを休息所と見ゆ

る。又其あたりに西
(さい)の川原といひつたへて石塔七つほどありしが、ふゞきの雪に閉ら

れたるか、蛭虻乾責られて身まかりなどするもの
あらばこゝに葬となん。

 是まで水一滴もなし。しかるに此巌の平なる所に一盃水(いっぱいみず)という麗水あり。

よにもて扱ふ摺鉢やうの凹にて麗水をたたへたり。


ここにて人々休息、手にむすびてのみほすに、暫して、又もとのごとく一盃にたたへ湧とい

へども少しもあふるることなし。此ゆへに此名あり。

奇なることを、感ぜぬはなし、さて是より五十町ゆきて奥院龍頭山葛坂不動尊。

本堂三間四面
惣朱ぬり 庫裏三間に四間 僧壱人僕壹人住けるが、高山ゆへ常に霧ふかければお

のづからそれがために其気をうけしにや、面色(かほいろ)
黄にてつねの人と異也。

それより七十八丁ゆけば山住大權現(7)の本社。拝殿神楽殿まで周備していと尊くぞ覚ゆ。

紀州熊野大権現を勧請せし霊地なりとぞ。

此社地には杉樅の大木敷かぎりなふ生茂る。

いづれも壹丈七八尺、二丈廻りある大木にてめざましくぞ覚ゆ。

此間峰つゞき二百三十丁也。

 さて廿二丁下りて山住近江守(やまずみあふみのかみ)とて神主の家居(いへゐ)あり、其外人家

も七八軒見へたり。こゝにて漸人家を見たり。

それより百丁ゆきて水久保村(8)(みさくぼむら)あり。又みさくぼ川あり。

三十間ほどのかけはし、板はゞ二尺ほどに見へて向ふ迄漸々にはね出したる橋也。

水際を見下せば凡四十間斗に見なして、はしをわたるに目くらみて
いとおそろし。

こよひは水久保村にて助左衛門といひしをたのみて一夜をあかすとなり。

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